フォーレは79歳まで生きた。
ノクターン、あるいは舟歌や即興曲集は、内部の作品の作曲時期が広範囲に分かれているため、ある意味で表現の変遷を辿ることが出来る曲集といえるだろう。一方、今回聴く9曲の前奏曲集の作曲は1909年から1910年までの間に収まっている。計画性と集中力を持った作品集と捉えてみたい。
ところで、このプレリュード=前奏曲というタイトルは、ノクターンや舟歌といったロマン派の産物とは違ってかなり昔から存在する言葉である。もともとは、教会で賛美歌を歌う前に演奏されたオルガン音楽を意味していたと思う。当然、ショパンやドビュッシーの前奏曲が一般的な概念として定着している現在は、せいぜい特定の形式を持たない自由な器楽作品といった意味合いで理解すればだろうか。フォーレが前奏曲集を作曲していた同時期にドビュッシーも12曲ずつ全二巻からなる前奏曲集を作曲中であったが両者の曲集としての位置づけは少し違っていたようで、ドビュッシーの前奏曲集には「亜麻色の髪の乙女」や「沈める寺」といったタイトルがそれぞれに付いている。一方でフォーレには調性記号しか付いていない。
いよいよ、晩年に突入するという65歳のフォーレの前奏曲集だが、ヴュイエルモーズは「若さを放射している」と驚きを隠していない。第1、4、7曲が長調で、あとの6曲は短調である。どれもそれほど長くない作品だが、移ろいやすいフォーレの和声感覚が凝縮されている。特に第1番変二長調は聴き手を予想をはじめから裏切っていくのが、不思議と美しく心地よい。第4番は「作曲家の全作品の中においても稀にしか用いられない色彩をもっている」が、ここでも玉虫色の和声の衣服を装っているとヴュイエルモーズは彼らしい表現で説明している。さらに第7番は「抑圧された不思議な力に満ちている」、「常にあるなぞのような表白を込めた、純粋な音楽の宇宙」と著者は続けている。
長調の曲だけ抜き出して今回もヴュイエルモーズの言葉を綴ってみた。
なお、私が聴いているCDはジャン・ユボーが70歳を超えてから録音したエラート盤である。フォーレのピアノ曲を聴く時、基本はこれを頼りにしている。
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