ヴュイエルモーズのフォーレを読む⑤

  視聴したのはエベーヌQ
  視聴したのはエベーヌQ

 ガブリエル・フォーレ。古典的過ぎることもなく、前衛的過ぎることもない、郷愁に包まれる旋律と新鮮な和声の連なりが美しい、控えめなで穏やかな性格の芸術家。私がフォーレを聴いてきた感想はこんな感じである。

 フォーレの音楽の先頭にくる分野はやはり歌曲であろう。30歳になる前はほぼ歌曲しか作曲していないし、生涯書き続けてもいる分野である。そして、ピアノ曲、ピアノつきの室内楽。歌曲でもそうなのだが、フォーレの大半の作品にはピアノが登場している。つまり、フォーレが音楽を構想するとき、あるいはひらめいた時、ピアノの響きがそこには含まれ、そのことがいたって自然に行われていたのではないかと想像する。

 さて、今回聴いた『弦楽四重奏曲ホ短調作品121』は、フォーレが亡くなった1924年に完成された遺作である。そこにピアノはない。静けさはこれまで以上に効果的で、純度を極限まで高めたそうなアンサンブルが繰り広げられる。

 フォーレは教会音楽に精通していて、教会旋法を使うこともしばしばであったが、第一楽章の旋律はフリギア旋法だと説明されていて、そのためか、敬虔で哲学的な渋さがあり、極めてフォーレ的である。前回書いたピアノ五重奏曲第2番同様に、この曲でもヴィオラから始まるのだが、本当にすばらしい音色でこれぞ最晩年という雰囲気が出ている。

 第二楽章はロクリアン旋法!そして、ピッチカートによる意外に軽めなスケルツォ風の第三楽章で音楽はクライマックスを迎える。印象としては第一楽章からどんどん若返っていくような変化を感じる。フォーレは弟子に作品を出版するか破棄するかを委ねたようだが、フォーレほどになると自分の作品に対して執着しないというところまでいってしまうのかもしれない。第三楽章のさっぱりとした疾走感はどこかそんな音楽観を表しているようにも聴こえた。

 ガブリエル・フォーレについての書き込みはこの辺で一旦終了にしよう。フォーレの叙情は楽しみきるためにはもっと年を重ねる必要がありそうだ。当然それは音楽全般に言えることだが、フォーレの叙情は特に深みがある。