シューベルト・さとり世代になじむ音楽

参考資料:喜多尾道冬『シューベルト』朝日選書
参考資料:喜多尾道冬『シューベルト』朝日選書

お悩み解消系ラジオ「相談は踊る」はジェーン・スーがパーソナリティをつとめるなかなか骨太な内容の番組である。この番組タイトルを耳にして、世界史で習った「会議は踊る、されど進まず」のもじりなんだろうなと、少し考えをめぐらせたことがある。そうに決まっている(間違いだったらただただ恥ずかしい)。


1814年9月から翌年6月まで一年間に渡り開かれウィーン会議は、ナポレオン軍の敗戦処理という意味合いがあったが、結果的に保守的貴族が旨みを享受するフランス革命以前のヨーロッパを建設する方向で概ね合意された。王朝復活。領土拡大。特権階級バンザイ!大国バンザイ!である。

 当然のことながら市民への検閲は厳しくなる。物価高で経済も下降線、鬱憤を貯めたウィーンの人々はストレスを発散するためだかどうなのか、毎晩のようにダンスホールへと向かった。

「オデオン」「ソフェア」「新世界」、どれも昭和の純喫茶みたいな名前ばかりだが、入るためにはそれなりのお金とステータスがいるらしい。すべてを足すと毎晩5万人の集客があったというから正気の沙汰ではないだろう。当時のウィーンの人口が25万人しかいないのだから。しかも自宅やら路上やら非公式?に踊る人などゴマンといただろうから。

 

そんな非公式な人々の中には、かのフランツ・シューベルト(1797-1828)もピアノを弾いて参加していたことだろう。彼のワルツやレントラーはたくさん残っている(思えば、J.シュトラウス一世とシューベルトは7歳しか変わらない)。ベートーヴェンはフランス革命以前に生まれその理想を享受できたが、シューベルトが生まれたころには、革命は成し遂げられ、あのウィーン会議の季節に多感な年頃を迎えていた。ウィーン市内を16回も引っ越しながら仲間のために音楽する小市民は、健康状態も悪く、まともな恋愛もできなかったようだ。

 

都会の喧騒の中、夢を持てず、金もなく、不健康に転々としているシューベルトのワルツは、実用的機会音楽でありながら、現実逃避の手段と言えるかもしれない。落伍者と芸術家の狭間で、シューベルトの旋律は美しく透徹していく。