高島野十郎 「在るに非ず…」

《月》は高島野十郎画集の初めの一枚として掲載されている、生涯公けにされず、売買されることのなかった作品である。月の題材を画家は繰り返し描いているが、月自体とか、月光とか、あるいか幾何学的なコンポジションが描く眼目にあったわけではないらしい。『高島野十郎評伝』の著者で、画家と親交が深かった川崎浹が1963年に増尾のアトリエに訪ねた際、画家は《月》について次のように語ったという。

 

「私は月ではなく闇を描きたかった。闇を描くために月を描いた。月は闇を覗くために開けた穴です。」

《月》(1963)
《月》(1963)

純粋に闇を写生するという行為は、ある意味で一生涯を写実画家としてまっとうした野十郎究極のテーマといえるのではないだろうか。暗闇は月のそばでは黄色く、次第に緑色へと移り、黒に吸い込まれていく。月は完全な球体ではなく少しゆがんでいて妙に視覚的である。星は見えない、少し空気が淀んでいるように思える。確かにリアルであるが、それ以上に画家が70歳を超えてたどり着いた精神的な境地が伝わってくる。

野十郎の死後、彼の発見に寄与した学芸員の西本匡伸は解説の中で野十郎の性格的特長を「潔癖さ」と表現しているが、この《月》にみてとれる切り詰められた画面構成はその「潔癖さ」が表れているように思える。

 

《傷を負った自画像》(1914)
《傷を負った自画像》(1914)

それでも若いときはさすがに才気に溢れている。《傷を負った自画像》は、福岡県久留米で酒造業を営む資本家の四男として生まれた野十郎が、学業に励み東京帝国大学農学部水産科で特待生だった頃の作品である。超が付くほどの秀才、優等生だった野十郎は当時から画家になりたくてしょうがなかったようだ。大学を主席で卒業した折、天皇から授与される「恩賜の銀時計」を辞退している。彼なりの社会のレールには乗らないという意思表明であった。《傷を負った自画像》は、表向き優等生を演じていた自分に対して、真の自我を探求せねば自分を保つことが出来なくなった若者の焦燥のように私には見えた。

とはいえ、絵は独学、画壇の流派に属することも嫌って職業画家として描き続ける選択は世捨て人同然に周りからは見られただろう。

《からすうり》
《からすうり》

1920年代から1930年代、西洋の前衛芸術を日本でも追従する流れの中で写実的な絵画は次第に陳腐なものとして捉えられるようになっていた。そんな中で俗世から距離を置く野十郎は風景画、静物画という西洋の伝統的な主題をただただひたすらに写実的に描いていった。

1930年からは年間に渡る渡欧も果たす。個展はたびたび開催し、何とか画家としてやりくりしていた。《からすうり》のように一見すると質素な題材に、なにか精神的な装いを与えてしまう凄み。からすうりと画家の禅問答が聴こえてくるような一対一の真剣勝負が伝わってくる。画家は「写実の追及とは何もかも洗い落として生まれる前の裸になることその事である」とノートに記している。

《空の塔 奈良薬師寺》(1955)
《空の塔 奈良薬師寺》(1955)

野十郎が生前よく口にしていた格言の中に「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」という言葉がある。その意味は、「在るものは実際には存在しない、また同時に無いということもない」ということ。聖と俗、有と無それぞれの世界にはそれぞれの真理が存在する。2つの真理は同一のものでも別々のものでもない。それをつなぐ架け橋がある。この嘉祥大師の『三論玄義』にある「中道」の考えを野十郎は大事にしていたと川崎氏は解説している。

その「中道」の考えは《空の塔 奈良薬師寺》によく表れていると私は思う。その鮮明な解像度と詩情は、空と塔という2つの世界が克明に捉えられているからこそ生まれるのであって、一元的な世界の見方では達成されないであろうバランス感覚が画面に宿っているように見える。

 

《蝋燭》
《蝋燭》

生涯変わらない信念を貫いた高島野十郎であるが、住まいに関しては社会に翻弄されることになる。戦後、二度の立ち退きにあっている。

一度目は1960年にオリンピックに伴う道路拡張工事により青山の家から柏へ引越し、1967年に宅地開発のため、自分で建てた小さなアトリエから立ち退きを命じられ、裁判までしたが結局柏内の別の場所に引っ越した。

隠遁し、俗世を離れようとしても、近代化と高度経済成長の波に野十郎は社会的弱者として影響を受けることになった。最後には千葉県野田市の特養老人ホームに半ば強制的に入居させられ、そこで85年の生涯を閉じている。死の間際に「誰もいないところで野たれ死にをしたかった」と言う言葉を残して。

高島野十郎
高島野十郎

画集や評伝から印象に残った部分を羅列的に書き出した本文だが、結局のところ私は原画を観た経験がない。画集でしか高島野十郎の作品にふれることが出来ていない。このもどかしさを何とか早く払拭したいと思っている。

鬱蒼とした茂みとか、透徹した沼とか、野十郎の写実には圧倒的なオリジナリティがある。多分これまでにない視覚体験ができることだろうという期待感。特に若いうちの一度は観たくてしょうがない、そんなふうである。

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コメント: 4
  • #1

    こゆこゆ (月曜日, 09 3月 2015 22:14)

    はじめまして

    久々に書棚から福岡県立美術館での画集をひもといていたら
    こちらの記事に出会いました。
    当時「空の塔」の前で、ソファーに座り込みしばらく動けなかったのを思い出しました。あまりに美しく清らかで、泣けてくる位でした。
    今でも、一目見たときの衝撃を覚えています。
    また、野十郎の生涯を通じての作品が会すような、展覧会あるといいですね。

  • #2

    hayashi(HP制作者) (火曜日, 10 3月 2015 03:00)

    こゆこゆさん、コメントありがとうございます。
    素晴らしい野十郎体験をなさっておられますね。
    絵の前で動けなくなる経験ってそう滅多にないことだと思うんです。
    絵を観る方の内面的美しさまでも伝わってくるようです。
    心よりうらやましく思います。
    私も原画を早く観てみたいです。

  • #3

    一美術ファン (木曜日, 06 8月 2015 22:08)

    千葉県我孫子市に住む一美術ファンです。
    貴文、拝読させていただきました。
    下から11行目、「我孫子」とあるのは「千葉県野田市」の誤りではないでしょうか。
    訂正した方がいいと思われますので、老婆心ながら一言。

  • #4

    hayashi(HP制作者) (金曜日, 07 8月 2015 00:21)

    一美術ファンさん、お読みいただきありがとうございます。
    このようなHPは一度UPしてしまうと読み返すことがあまりないので、
    今回のように細部の誤りに気づいていただけるととても助かります。
    老婆心に感謝です。
    ただいま訂正いたしました。