シャルフベック 女の一生

ヘレン・シャルフベック Helene Schjerfbeck(1862-1946)について関心を持った。彼女の絵画はやさしく、ひっそりとして、時に恐ろしい。

彼女は3歳の時に階段から落ちて以降、杖を突いての生活を余儀なくされたが、芸術家としては行動的なモダンガールであった。19世紀末に、当時まだロシア領だったフィンランドから飛びだして、パリやウィーン、イギリスやイタリアを旅する中で、流行と伝統を貪欲に吸収した。

一方で、後半生は半ば隠遁生活に入り、83年の生涯を独身で貫いた孤独と忍耐の人でもあった。女性の社会的地位が低かった時代に芸術家を真っ当した勇気と精神のドキュメントには感動を覚える。

 

2015年の梅雨時に東京藝術大学大学美術館で開催された『ヘレン・シャルフベック-魂のまなざし-』展の図録を読みながら、彼女の作品を並べてみることにしよう。


シャルフベックは俗に言う神童や天才の類に入る。1862年7月10日ヘルシンキに生まれた彼女は前述の通り、3歳のときに階段から落ちて左腰を負傷した為に、歩行困難に陥った。小学校に通えなかった為、家庭教師に学んだのだが、そこで絵の才能が認められ、フィンランド芸術協会の素描学校に11歳の若さで入学を許された。在籍していた4年間の成績は常に優秀。作品が評価されて奨学金を得ることができた。それを資金にして、1880年の秋にパリを訪れることができたのである。

 初期のシャルフベックの作品には、リアリズムへの確かな手応えが感じられる。《妹に食事を与える少女》はポン=タヴェンで描いた作品。

子供へ向けるやさしい眼差しと、彼らが直面している生活の厳しさが独特の情緒を生み出している。


「私は貧しいけれど繊細な子供たちを描くのが好きです。」(1918年1月8日、ロイター宛)


また、《リゴレット》では頼りなく、落ち込んだ顔と曲がった背中を速い筆の運びで描いている。渋い赤と青の衣装が印象的に道化の悲哀を浮かび上がらせている。風景画においても何気ない生活の光景に美を見出している。《洗濯干し》におけるシーツの不均等な並びや、だらっとした様子をいかにもモダンなセンスで切り取っている。写し取る力という点においては、何点かのバロック絵画の模写が実力の高さを証明している。その中でも精緻なホルバインの模写をここでは載せることにしよう。

留学時代、パリの画塾アカデミー・コラロッシで学び、ポン=タヴェンやセント・アイヴスを旅したことにより磨かれたリのはリアリズムの精神だけではない。《扉》では、二次元的で抽象的な世界を切り開いている。モノトーンな色調はシャルフベックのトレードマークになっていく。

 

「私は灰色が好きなのでしょうかー私が最も多く描いてきたものです。」(1916年ロイター宛)

 

私生活では1885年に恋仲にあったイギリス人画家との婚約関係が一方的に破棄されている。別れの原因は不明だが、その画家の名前が書かれた手紙をすべて捨てるように友人に頼んでいることからかなりのショックを受けていたが想像できる。

失意の中で1890年にフィンランドに戻り、ヘルシンキの素描学校で教師として働いたが、病気がちで休職することも多かったという。

1902年に退職して母と二人でヒュヴィンガーへ移住する。小さな家に閉じこもりながら、展覧会に出品したり、雑誌や画集を読みふけりながら、個人様式を確立していった。

《断片》は、この時期の作品で、パリのアトリエでで出会ったシュヴァンヌからの影響を受けているといわれている。フレスコ画のようなマティエールが油彩画で試みられている。《お針子》では、ホイッスラー風の構図を採用している。


ロッキングチェアーの丸みと猫背の調和が美しい作品で、どこか郷愁が漂う。その他にも、バーン=ジョーンズらラファエル前派やムンクなどからもインスピレーションを得て、数々の肖像画を描いている。フィンランド芸術協会からの依頼により描かれた、代表作《黒い背景の自画像》では、浮世絵の影響さえ指摘されている。

 

「肖像画は一番面白いものです。感傷的な飾りのない現代の絵画です。」(1907年、ヴィーク宛)

 

また、ヒュヴィンガーでは大事な出会いもあった。1915年に若い画家エイナル・ロイターが彼女の作品にい惹かれて訪ねてきたのである。それは50歳を超えた画家に最後の恋心を抱かせる出来事であったが、その恋が叶うことはなかった。芸術家として孤高の存在になりつつあるシャルフベックだが、一女性として再度花を咲かせようとするこうした心の動きを思うと、実に切ないエピソードだと感じる。引っ掻いた傷が残る《未完の自画像》は画家の自傷行為と言われている。

 

このように、壮年期のシャルフベックは実験的で画風が安定しないのだが、一貫して禁欲的な色調と構図に根ざしている点において、個性を発揮していると言えだろう。

シャルフベックも徐々に老いてゆく。1923年に母を亡くし、独り身になった彼女は、1925年にタンミサーリへと移住する。後期になるにしたがって、輪郭線を太く明確に描く肖像画が増えていく。木彫りの彫刻のようでもあるし、イコンのようでもある。原初的な力が備わってくるようでいて、色調はむしろどんどん淡く静謐になっていく。

 

「私は色調というものは殺してしまうまで力を得ないものだということに気づいています。新鮮な色というものは、私にとっては生々しく弱い者でしかありません」(1927年12月12日、ヴィーク宛)

 

また、エル・グレコやセザンヌ、ドーミエ、について夢中になっているとも1920年代の手紙には綴られている。事実、エル・グレコの模写が残されている。テンペラを一部に使った《天使断片》は、色彩の面の重なりによって像が浮びあがってくる。まるでエル・グレコとセザンヌについての関連を作品で証明して見せたかのようだ。

 

1939年に第二次世界大戦が始まると、テンホラにある農場に疎開。そして、1944年にスウェーデンのサルトショーバーデンの温泉療養ホテルへ移る。

最晩年の自画像や静物画は、美しいものだとは言えないだろう。物質としての形態を留めながら、溶解し、意識がもうろうとしてきて、無に近づいていく。80歳を超えた老婆がホテルの一室にこもり、右のような作品群を描き続ける様子は圧巻の一言である。いつ死んでもおかしくない感性の刹那の中で、消えるようなタッチで描き留めた自己消滅へのプロセスが、茶褐色を基調として表現されている。

 

「私は描くことをやめようとは思いません。ただ疲れているのです。」(1942年12月26日、エルムグレン宛)

 

1946年1月23日逝く 享年83歳。