ヤン・ステーンの描く食卓は愉快だ。おしゃべりがそこかしこから聞こえ、さまざまな職業の人々が酒やパイプを片手に奔放に振舞う猥雑な世界。床に落ちた割れた卵や食器には目もくれず、ヴァイオンの音頭に合わせて人々は踊っている。ヴァイオリンってそんなに上品な楽器じゃないのかもしれない。
ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)の曲集《ターフェルムジーク》は市民のと言うよりは貴族向けの音楽かもしれないが、私はテレマンの音楽全体に漂う陽気な市民感覚にヤン・ステーンの精神を感じている。ハンブルクやフランクフルトのような進歩的な自治都市でアマチュアオケやオペラハウス、楽譜出版のための作曲されていた無数の音楽は、18世紀前半欧州地域の風俗を音化したような楽しさに溢れている。
《ターフェルムジーク(フランス語による原題:Musique de Table)》は日本では「食卓の音楽」なんて訳されているが、要するに王侯貴族や市参事会が食事やパーティで楽しむBGMという意味合いがある。全3巻からなり、巻の内部は6つの異なる編成の部分(序曲-カルテット-コンチェルト-トリオ・ソナタ-ソロ・ソナタ-終曲)により構成されている。出版は1733年で、新聞広告によれば3ヶ月に1巻ずつ(昇天祭、ミカエル祭、クリスマス)出版されたという。予約した186人の中にはヘンデルやピゼンデル、クヴァンツらの名前があり注目度の高さが伺える。
陽気な雰囲気と書いてはみたが、第1巻は短調が基調となっておりメランコリックで少々土臭い舞曲の連なりから始める。ソロ楽器の主役はフラウト・トラヴェルソ(フルート)ということになるだろう。トラヴェルソによる短調の序曲と言えば、J.S.バッハのロ短調の序曲BWV1067が有名だが、テレマンのホ短調の序曲では2本のトラヴェルソと2本のヴァイオンがソロ楽器として扱われており、精妙な掛け合いが楽しめる。トラヴェルソの魅力をストレートに味わいたいのであればソロ・ソナタもあるが、それよりトラヴェルソとオーボエが開放的にポリフォニーを展開するカルテットの方が聴き応えがある。テレマンは霊感に満ちたトラヴェルソのため作品を多く残しており、気だるさと軽やかなリズムがあいまった第1巻はテレマンの真骨頂といえるかもしれない。
第2巻はニ長調のトランペットで華やかに始まり、第1巻のメランコリーと対称を成す。注目は3つの木管(リコーダーと2本のトラヴェルソ)とコンティヌオのためのカルテットで、職人的妙技が発揮されている。小鳥がさえずっているような甲高いリコーダーは可愛らしいが、テレマンはここでもマイナートーンの中でテンションを落ち着かせ、微妙にシリアスな陰影を加えている。一方で、コンチェルトでは3本のヴァイオリンがソロを形成しており、こちらはイタリア風近代的佇まいの最たるものである。続くトリオ・ソナタでのトラヴェルソとオーボエの対話と、ソロ・ソナタの健康的な伸びやかさを経て、これぞテレマンという色彩的なフィナーレへとつながっていく。バッハ同様にテレマンもトランペットをファンファーレとしてではなく、アンサンブルの中に巧みに組み込んでいる。オーボエやヴァイオリンと等価の存在感にバランスを整えているからこそ、軽妙なニュアンスが生み出されるのだろう。
第3巻の序曲は管楽器が2本のオーボエのみという簡素な編成を採用する。それぞれの楽曲には表題がついていて、例えば〈羊飼いの歌〉ではオーボエと弦楽器が重なり合って響き独特な朗らかさを発している。〈ポスティヨン〉は郵便馬車のラッパを模したリズムが面白く、〈いたずら〉ではおどけたパッセージがチャーミングである。一転してカルテットは教会ソナタ然とした厳格な様式へとシフトする。さらに驚きなのが、次のコンチェルトではソロにホルンが選定されていること。野外の風が窓から入ってくるような新鮮な音色が加わる。
このようにテレマンは、無数のアイディアと職人的探究心をもって《ターフェルムジーク》を完結させたわけだが、その精神はこの曲集のみに限定されたものではない。彼はどんな時にでも純粋に音楽と戯れ、市民や貴族を楽しませることに喜びを感じていたのだと思う。啓蒙思想だとか百科全書派、あるいは混合様式などテレマンの音楽を形容する概念はいくつかあるのだが、固い言葉は効力を持たないくらいにテレマンは軽やかに音楽を書き続けた。彼は呼吸するように作曲したのだ。
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