カンタータ第125番《安らかに、喜びつつ私は逝く》

レンブラント《寺院のシメオン》

  右の作品は、レンブラントの未完の絶筆と言われている作品である。場面は老シメオンが幼子イエスを抱くシーン。オリジナルはストックホルムにあり、私は見たことはないのだが、パソコンで見る限り、レンブラント最晩年の独得の分厚く荒いタッチと、人物の内から発光しているかのような光の表現に圧倒される。

 シメオンは、敬虔な祈りの人である。そのまじめな性格からか聖霊が宿り、メシアの到来まで生き続けるだろうというお告げを受けていた。一方、イエスの生まれたマリアとヨセフの夫婦は、律法に従い生後40日(2月2日)に清めの儀式をするためにエルサレムの神殿へ出向いていた。

神殿でイエスに接したシメオンは、彼こそメシアであると予見し、彼はイエスを抱き上げた。これにより旧い契約は終わり新しい契約が到来したという内容がルカ福音書第2章22-32節に記されている(詳しい解説があるHP)。

 

 レンブラント同様にバッハも、この「マリアの清めの祝日」を主題にしたカンタータを数曲残している。その中でもコラール・カンタータ《安らかに、喜びつつ私は逝く》BWV125は、死の恐怖、静寂、安らぎ、喜びが見事に表現されたカンタータだと私は思う。ルターのコラールが少々暗めの定旋律として全体を貫かれている。冒頭はフラウト・トラヴェルソとオーボエのほの暗くも精妙を極めたアンサンブルと対位法の込み入った合唱により、死の意義が歌われる。「sanft und stille(穏やかにして静かに)」の部分は小声で揃って歌い、休止で無音になった後、フォルテでアンサンブルが始まるレトリカルな表現は感動的な効果を上げている。第2曲はアルトのアリア。フラウト・トラヴェルソとオーボエ・ダモーレとコンティヌオのトリオが3度の同音進行や模倣をゆったりを進めながら、さらなる瞑想のモノローグへと踏み込んでいく。「私は目の力が失われても、尊い主よ、あなたのおられる方を見るつもりです」。闇の中を光を求め歩を進めるように感じる。それに続いて、バスが死の苦痛がキリストのおかげで克服されたとコラールとレチタチーヴォを交代させながら歌う。

  コラールとレチタティーヴォが終わり、次のテノールとバスのデュエットが始まるところは最も素晴らしい瞬間である。雲の切れ間から突然光が差したかのような幸福感が満ちる。2つのヴァイオリンが模倣しながら闊達な協奏を開始する。歌詞にはこうある。「名状しがたい光が世の全域を満たす」。2人がそろえて歌う「信ずる者は幸せになるだろう」というシンプルな教えが説得力を持つのも音楽の力によるところが大きいように思える。

 

 私はこのカンタータをガーディナーの音盤で知った。アリアの孤独で霊的なまでの静けさや、レチタティーヴォからデュエットへとつながる劇的な流れが輝かしい効果を上げているため、ぜひ彼らの演奏をお勧めしたいと思う。