『静寂から音楽が生まれる』の原著は2017年にベーレンライター社から出版されており、ピアニストのアンドラーシュ・シフへのインタビュー及び自身のエッセイが収録されています。インタビュアーのマーティン・マイヤーは歴史、文学、哲学に精通しており、ブレンデルとの対談本を出版している過去があります。マイヤーの専門的かつ幅広い知識から繰り出される質問によりなかなか突っ込んだ内容の対談になっており、そのおかげもあってシフという音楽家の多くの部分を知ることができる内容になっています。
シフという音楽家には多様な側面があります。まず第一に歴史的演奏解釈者としての一面があります。何よりバッハを敬愛し、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンやロマン派の作曲家、バルトークに対して並々ならぬ敬意を払って向き合っているのが言葉の端々から伝わってきます。実際に若い時からハンマーフリューゲルを所有し、チェンバリストのジョージ・マルコムに師事しながら、作曲当時の奏法の研究と実践、そして録音を続けています。シフはベートーヴェンやシューベルトなどの自筆譜のファクシミリの出版に際して序文を書いているのですが、そもそも自筆譜への関心の高さ、霊感のようなものを自筆譜から感じ取ろうとする音楽家としての態度が圧巻なのです。そういった意味で知性と情熱とテクニックのバランスが高次元で釣り合っている演奏家がシフである言えるでしょう。彼をフランツ・リスト音楽院で育て上げたカドシャ、クルターグ、ラドシュへの感謝と称賛は惜しみなく書かれています。
一方で毅然としたところがあります。シフが祖国ハンガリーに対して政治的な批判を発信している点は、私にはシフの優しく静かな語り口からは想像できない部分でした。シフはユダヤ系の家庭に生まれており、大戦後のブダペストで共産主義の生きづらさに直面していました。結果的には1979年に亡命することになります。このような生い立ちが大きく彼の音楽家としての歩みに影響を与えることになりました。現在シフはイギリスの市民権を得ています。そして、2011年以降ハンガリーのナショナリストから度重なる攻撃にあったことから、祖国での演奏はしないことを表明しています。
この本の中でとても楽しく読めるのが、さまざまな音楽家との親交が綴られてるところです。リヒテルの演奏を聴いた時の感動。アニー・フィッシャーを追っかけ同然に聴きまくり、音楽家としての交流を深めていく変遷。マールボロ音楽祭で受けたホルショフスキやゼルキンのレッスン。そしてヴェーグとの数々の録音。妻となる塩川悠子さんとの出会いについての語られています。
シフの作曲家に対する真摯な姿勢には心打たれます。シフはコンサートの聴衆に対しても一定の質を求めています。拍手のタイミング、咳払い、プログラムをめくる音、すべてが演奏に影響してしまうことを訴えています。音楽をすべての方向から考えている人だからこと、改めて大切なことを書いているんだと思いました。「音楽」の向き合い方について考える機会を与えてくれる本でした。最後に著書の中から印象に残った部分を一部書き出してみたいと思います。
「(《熱情ソナタ》について)私は長年、リヒテルの録音の影響下にありましたが、今はそれとは距離をおいていて、もはや多くのことが気に入らなくなっています。それにしても、かつて《熱情》のフィナーレのあの「すさまじい速さ」が良いと思っていたなんて、今では信じられません・・・。」p.15
「正直に言いますと、その曲(シェーンベルクのピアノ協奏曲)はあまり好きではないのです。そもそも、シェーンベルクのことがあまりよく分からないのです」p.16
「バッハを弾くと、いつも解き放たれたような気持ちになります。よく言われているバッハの厳格さは錯覚だと分かったのです。バッハはほとんど指示を記しませんでした。」p.24
「若い頃、グレン・グールドに強く影響されました。それは後に薄れてゆきましたけれども。それから、エドウィン・フィッシャーの影響力が大きくなり、それは今日まで続いています」p.28
「なんといってもシューベルトで魅力的なのは、ほとんどの曲に巨匠たちの演奏解釈の歴史と呼べるものが存在しないということです。」p.39
「(シューマンの)格調高い後期作品は、不当な過小評価から擁護されるべきです。」p.46
「ショパンは本当に無慈悲です。自由が極端に制限されています。テンポ、デュナーミク、ペダル、すべてが非常に正確に、おまけに非常にうまく指示されています。残念ながら、それらはほとんど守られていませんが。」p.51
「録音であれば、ブッシュ四重奏団をずっと崇拝しています。おそらく手の届かない、比類なき存在です。」p.56
「聴衆がもはや以前のように良い耳をもっていない、ということです」p.66
「You Tubeの音質にはさらなる改良を求めたいですね。」p.71
「(1962年リヒテルの演奏に)とてつもない感銘を受けたことを鮮明に覚えています。リヒテルは人知を超えた狂人でした。」p.114
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