東京は朝から冷たい小雨が続いていました。
11月26日、私はコロナ蔓延以降初となるコンサートへ足を運びました。演目は東京オペラシティで行われたクリスティ&レザール・フロリサンによるバッハのヨハネ受難曲です。長きにわたりバロック・オペラやフランス古楽音楽において求心力を発揮してきた重鎮とその主兵たちだけに、今回の来日で唯一の公演になったこの公演でどのようなバッハを聴かせるか期待が高まっていました。
パンフレットによると当日の編成は、ソリスト6名、合唱団13名、オーケストラ23名の総勢42名でした。ソリストは合唱にも加わっていたのでその都度人数が増減していました。
楽団員がステージに現れ、拍手が鳴る中で楽団員とそれほど間を開けずにウィリアム・クリスティも颯爽と登場しました。思っていたよりもずっと細身で身軽な印象です。観客にお辞儀した後、やはり間を開けず大きな手のひらを広げて勢いよく腕を振り降ろしました。
冒頭の合唱は物凄いスピードで始まりました。低音は不気味な律動をはっきりと刻み、弦や木管はうねる音階をこれでもかとぶつけていました。異様なエネルギーの表出により、私(たち)は一気に聖書の物語に引きつけられました。これがバッハ音楽の作品世界であり、オペラを主戦場とするクリスティの流儀なのかもしれません。
第1部は《イエスの捕縛》と《ペトロの否認》です。クリスティの向かって左に福音史家が立ち、左にイエス役のソリストが立っていました。ペトロが捕縛されたイエスを追って着いて行く場面で歌われるソプラノ・アリアでは2人のフラウト・トラヴェルソ奏者が立奏して生き生きとしたアンサンブルを奏でていました。ソプラノのレイチェル・レドモンドは後半の《イエスの死》の場面のでアリアでも独唱を務めていましたが、歌いまわしの滑らかさと凛とした声質で大変に魅力的でした。
第2部の前半はローマ総督ピラトとイエスのやりとりが続きます。裁判での《判決》は、ヨハネ受難曲でもっとも緊迫した場面ですが、福音史家のバスティアン・ライモンディとイエスのアレックス・ローゼンは時に向き合ったり、立ち位置を変えながら「会話劇」のようにリアルな間と台詞に相応しい抑揚を追求していました。2人の歌手の安定した振舞いを観ているととても満たされた気持ちになりました。バッハの音楽やバロックの声楽作品は通奏低音グループと歌手陣のコミュニケーションとクリエイティビティが音楽の核になると思っています。このチームには「バッハの受難とはこうあるべきだ」と思わせる説得力を備えていました。
クリスティは欲しい音があるときに、そちらに大きく一歩足を出し、身体を向け、両手で大きくジェスチャーします。通奏低音グループや合唱を煽る精力的な指揮ぶりをこの《判決》の場面で多く観ました。それにより手に汗握る臨場感ある《判決》の場面になりました。
私がこの演奏会でもっとも素晴らしいと思った場面は次の《はりつけ》から《イエスの死》までの場面です。音楽は徐々にゆっくりと静けさへ向かって流れていきます。「Es ist vollbracht!(果たされた)」とつぶやき、イエスが十字架上で息絶え、ヴィオラ・ダ・ガンバのオブリガートによるアルトが歌う「Es ist vollbracht!(果たされた)」のアリアになります。イエスの死への悲しみ、慰め、何とも言えない感情の独白として沁みてくるアリアです。そして、このアリアが終わり、福音史家が「そして(イエスは)首を垂れ、息を引き取った」と静かに語り、沈黙が訪れるのです。沈黙の後は、優しい響きのアリアと合唱「私の愛おしい救い主よ、問わせてください」がやってきます。この、緊張と緩和、絶望から希望へと変容していく音楽の美しさに深く感動しました。
コラールについては、クリスティは一節一節をしっかりとフェルマータをつけながら指揮していました。第26曲は無伴奏で合唱団は座りながら歌っていたと思います。そのようにして、楽曲の流れの中で意味づけしながら丁寧に表情を与えていたと思います。
レザール・フロリサンはCDで聴いていた通り、豊潤で艶があるアンサンブルでした。若い奏者がたくさんいて、フレッシュでした。私の席(1階25列4番)からはチェリストの姿が良く見えたのですが、前かがみになりながら弓を大きく動かして、クリスティの指揮に食らいついこうとしているように見えました。奏者と歌手一人一人の姿から音楽への積極的な態度と自主性が熱気として伝わってきました。そして、クリスティの表出的な側面と内省的な側面が音楽の幅として表れていて圧倒されました。
カリスマと呼ぶに相応しい音楽家集団だと思いました。
日時:2023年11月26日(日)14:20開場 15:00開演 17:30終演
会場:東京オペラシティコンサートホール:タケミツメモリアル
指揮:ウィリアム・クリスティ
演奏:レザール・フロリサン
バスティアン・ライモンディ(テノール/エヴァンゲリスト)
アレックス・ローゼン(バス/イエス)
レイチェル・レドモンド(ソプラノ/女中)
ヘレン・チャールストン(アルト)
モーリッツ・カレンベルク(テノール)
マチュー・ワレンジク(バス/ピラト)
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